代表インタビュー・プロフィール

ホテイ産業研究所は、バイオ(微生物)を利用した環境衛生製品を開発しています。
バイオは環境をクリーンに戻す本当のエコ技術。地球水環境の未来を担います。



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代表インタビュー・プロフィール

有限会社ホテイ産業研究所 代表取締役 白石工

白石 工(しらいし たくみ)

有限会社ホテイ産業研究所 代表取締役

1959 年5 月15 日神奈川県横浜市生まれ。横浜在住。

有限会社ホテイ産業研究所 代表取締役。

 

日本大学生産工学部を卒業後、市内の海産物問屋に就職。その後印刷会社での20年の勤務を経て、有限会社ホテイ産業研究所の代表を継承。

以来、バイオの力で消臭や浄化をおこなう製品を開発し、同製品は国立自然公園をはじめとした官公庁で採用。行政、企業、個人への普及につとめている。

横浜で育った、技術者の息子。

横浜の金沢区というところで生まれ育ちました。父は電鉄会社の設計技師で、パンタグラフの設計などをしていたようです。兄と妹と両親という家族で、一言で言えばわんぱくな子供時代を過ごしていたのですが、ひとつだけ特別なことがあったのは、腎臓病を患い、その薬の副作用で聴力が弱くなってしまったことでした。補聴器をつければ日常会話はこなせるのですが、やはり苦労をすることもありましたね。

工学部を出て、海産物屋になる。

市内の中学、高校を経て日大の工学部に。しかし真面目に学ぶという一面よりは遊び優先の学生時代だったような気がします。この時分、よく遊びにきていたのは江ノ島や小田原でした。電車から見る湘南の海や風景に憧れを抱いていたように思います。

 

そんな学生時代ですが、アルバイトにも精を出していて、その当時に出入りしていたのは横浜の海産物問屋でした。そしてその番頭さんに誘われるまま、卒業後の進路も工学部を出て「海産物問屋」という異色の経歴に。親不孝だったなと、いまでは思いますよ(笑)

技術職、そして営業職への転向。

海産物問屋では3年勤めました。人と接する商売の基礎をここで学ばせてもらった気がしますね。その後、ご縁があって同じ横浜市内にある印刷会社に転職。当時台頭し始めたCTSと呼ばれる電算写植の技術職として入社しました。途中から営業職に部署を変わった時には幼少期から患っている難聴が災いして発注数やお客さんの注文数を間違えてしまったりと苦労はありましたが、骨をうずめるつもりで入った会社でしたので、結局そこで20年勤めました。きっと、ホテイ産業との出会いがなければ今もそこに勤めていたかもしれませんね。

転機。ホテイ産業との出会い。

そんななか、ホテイ産業研究所の創業者である今村定夫と出会ったのは2005年のことでした。ちょっと今村のことをご紹介しますね。

兵庫出身、昭和2年生まれの今村は大阪商船で戦時輸送業務に従事し、戦後もスウェーデンの船舶関連企業にうつり、海に関わりあう仕事をしていました。時勢は石油至上主義時代で、さまざまなエネルギーや資源、薬品が重油や石油から合成されていた時代でした。そんな時代のなかでいち早く枯渇する石油資源に頼ることの脆さと、石油由来の製品がもたらす環境汚染、とりわけ海を汚してしまうことへの危機に気づいた今村は、環境浄化機器の研究に着手しました。それ以外に国内の研究者の環境浄化技術に着目し、自身も微生物の働きを利用した環境浄化手法を研究する目的でここ鎌倉に研究所を構えました。それがこの有限会社ホテイ産業研究所となります。

昭和60年には現在の「バイオフェアリー」の基幹技術である微生物による浄化技術に到達。平成に入ってからは「ひらめ」の養殖場で水の浄化・悪臭の除去に成功し、川や海を汚さない浄化ツールとして、公衆トイレや公共施設、学校のトイレなどで採用されるなど成果が出てきました。

 

しかし、ようやく軌道にのってきた事業でしたが、今村自身が高齢になってきたことで事業の継続が困難となり、後継者を探すことになりました。友人を介し、自分にホテイ産業の話が伝わってきたのもその頃のことです。

 

まずは友人からホテイ産業の事業内容を聞き、資料を見て、この事業はまさしくこれからの事業だろうということを確信しました。この事業が途絶えてしまうのはあまりにもったいないと思ったんです。その後今村氏と会い、事業の継承の意思があることを伝えさせていただきました。

待ち受けていた、思わぬ困難。

20年勤めた前職を辞め、今村から事業を継承しほどなく、思わぬ困難が待ち受けていました。それは、私が事業継承に名乗りをあげる以前に、事業継承をあきらめた今村が、これまでの既存顧客のみなさまに廃業の意思を伝えてしまっていたということでした。これは創業者今村の生真面目さゆえからだと思うのですが、研究開発の代価をこれから回収するはずが、見通しが立たなくなってしまったのです。これに気づいた時には、正直愕然としました。良い技術、良い商品であるという確信があった一方、事業として継続させるためには細々とした収支を編むようにして増やさなければいけない。その一本一本の糸が断ち切られていたわけです。それは事業に対して、大きなブレーキになりました。そこからは本当に大変な思いばかりで、何度もこの事業を継承したことを後悔しましたが、とにかく良いものを伝えたいという一心で、このホテイ産業の看板を背負ってきました。そして気づけば、もう10年が経ちました。

海を汚さず、人の営みを続ける。

10年間、今村の想いを引き継ぎ、ここ鎌倉から発信をし続けてきました。苦労ばかりでやってきたこの道でしたが、最近になってようやく多くの方にこのバイオフェアリーを使っていただくようになり、喜びの声もいただくようになってきました。

 

海を汚さず、人の営みを続ける。それは困難な道に思えるかもしれませんが、きっとやれる道です。今村が目指し、そして私が目指しているのも、そんな未来です。そして、ここ湘南ではその想いに共感していただける方が、とても多いと感じています。すべてうまくいくわけがないという人もいます。けれど、いまも努力を続けている人もいるわけです。なによりも調和。みんなが楽しくやれる方法を考えれば、きっとすべてはうまくいきます。そう信じていますよ。

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